文:木村圭介
「ハーイマエコギイキマスヨ!」
「いち!に!いち!に!」
陽気なネパール人ガイド・タムさんの声に合わせて、子どもたちと息を合わせてパドルを漕ぐ。後志地方を東西に貫く母なる川、尻別川の一区画を私は下っていた。
6年生を担任する私は9月の頭に修学旅行に行った。初日は午前中は小樽で研修、午後からラフティングをしてその後ホテルに移動し一泊する。二日目は縄文時代の遺跡や水族館を見学するという札幌市の小学校では王道コースの修学旅行だった。これらのラインナップだと、最も大きな子どもの楽しみはホテルでの時間になる。次いで水族館見学か。
ラフティングに関しては、楽しみにしている子もいれば、不安に思っている子もいて、「なんとも言えない」活動として受け取られていた雰囲気があった。子どもたちの大部分はボートに乗って川を下るなどという経験をしているはずもなく、どんぶらこ〜どんぶらこと流れる桃の如き活動に明るさを見出すことができなくても仕方のないことだったと思う。
その微妙な評価を下されていたラフティングを終えたとき、どの子にもいっぱいの笑顔が浮かんでいたのが非常に印象的だった。その表情を目の当たりにしたとき、彼らの中に残ったものは何だったのかという疑問が湧いた。私を含めた6年生の担任たちが採択したラフティングには、思ったよりもずっと多くのものを子どもたちに与えることができる活動だったのかもしれない。

私たちが体験したラフティングツアーの紹介を簡単にしておきたい。ツアー会社の店舗に到着すると、まず片言の外国人ガイドたちが盛大にお迎えしてくれる。ボートに一人ずつガイドが付くが、そのガイドに言われるがまま移動していくと、ドライスーツやアクアシューズを手渡されそれを着用する。次の場所ではヘルメット、またその次の場所ではライフジャケット・・・まるで自動車工場のように次々と装備を身に着け、あれよあれよと旅行者ラフティングマンが出来上がる仕組みが出来上がっていた。準備が整うと、ニセコエリアのラフティング出発点にバスで移動し、ボートに乗り込んでいく流れとなる。ボートに乗ると、すぐに基本的な漕ぎ方や、ガイドの指示に従って動く練習をする。参加者がする動きは簡単なものばかりで、前から後ろへ漕ぐ、後ろから前に漕ぐ、ボートの中に入って身を小さくする。この3つだけである。これらをガイドの指示に言われるがままに繰り返していくのが北海道のラフティングツアーのテッパンらしい。

ラフティングが始まる直前までの半日の間、1時間に1ミリ程度の雨が降り続いていたおかげで尻別川の水は薄茶色に濁り、底まで見通せるはずの透明度は見る影もなくなっていた。こっそり釣りのポイント開拓をしようとしていた私の気分はどん底。ご存知の方も多いと思うが、尻別川中流域は水量が多く河原がないため、歩き通すことが極めて困難だ。道路からうまくアプローチできない場所も多く、「頑張ってそこまでいけば良い思いができるポイント」があるに違いないと思っていた。しかし、この水色では水深が分からず、ポイントの見極めは不可能。「俺は一体なんのためにラフティングをするのだ・・・。」とがっくりきたが、児童の安全な学習活動のためにボートに乗るという本分を思い出してなんとか大人としての面目を保つことができた。増水の程度は思ったほどではなく、体感的には平水時の2~30センチ増といったところであり、ラフティング自体にそこまでの危険箇所はなさそうだな、と教師として子どもの安全面もしっかり考えていたことを申し訳程度に書き添えておく。
一艇に乗る子どもの数は8人前後。最初は中々パドリングのタイミングが合わず、うまくボートが進まない。全員で声を出して、息を合わせると水を掻く効率は一気に上がり、ボートは面白いように水面を滑っていく。たったそれだけで子どもたちは驚きに顔を喜ばせる。そこに、まともなフライマンだったら荒すぎてスルーするほどの落ち込みや荒瀬が現れ、ほどよくスリルのある動きが起こる。最初は顔を引き攣らせてビビっていた子どもたちも、いくつかのランを乗り越えた経験から落水の心配がほぼないと見るや、余裕で川下りを楽しむようになっていった。

漕ぐ、流れる、ゆれる。たったこれだけのことで、子どもたちの心はどれほどエキサイトしたことだろう。私はそんな子どもたちの様子を見ながら、自然がもつ普遍の価値の一端といったようなものを感じたような気がした。
令和の時代を生きる子どもは、たくさんのコンテンツに囲まれている。幼稚園児すらアマゾンプライムビデオをうまく使うし、小学生はいかに長い時間スマホを触るかの攻防戦を親と繰り広げている。大層簡単に「楽しさ」に手が届くようになった反面、自らの感覚を働かせずにコンテンツを消費しているだけの時間が長くなっている。アニメやゲームなんてまさにその最たる例で、「あなたはこのアニメを見た後、感動して涙を流すのです。」というところまでお膳立てをしているかのような構成・演出が見え透いて、「その手には乗らんぞ。」と変に意固地になってしまうこともあるほどである。
そんな社会の中、子どもたちは身一つで自然の中に飛び込む経験をした。結果そこにあったのはどこまでも自由な感情を伴った、生きた楽しさだった。子どもたちはそれぞれの思いを胸にボートに乗り、ただ流され揺られ川を下る。たったそれだけの行為で、どんなキャラクターの子どもでも楽しんでいたという事実。その事実が子どもに刻まれたことそれ自体に、大きな価値があったのだと胸を張って言える。願わくば、また来年の6年生も川を下ってほしいものである。