文:木村圭介
クラウド上のデータを漁って見付けた一枚の写真の日付は、2018年7月18日。札幌の市立小学校が夏休みに入る直前だった。そこに写っているのは、古いコットンのフィッシングベストを着て手には迷彩柄のグローブをはめ、笑顔でニジマスを持つ私だ。控えめに言って、ダサい。
その年の春、私が勤務する小学校に異動してきたある教員がいた。自分より一回りは年上の彼は歓迎会での自己紹介で言った。
「趣味は釣りです。釣りが好きすぎて一度この仕事を辞めています。」
これはとんでもない人が来たものだと、私はすぐに声をかけた。
「どんな釣りをするんですか。」
「なんでもやるんだけど、一番はフライかな。」
これが自分の釣りの世界への扉が開いた瞬間だったと思う。
当時の自分は、フライロッドを持っては家の近くの川に行き、若いニジマスを釣ることが釣りのすべてだった。30センチで大物だと思っていたし、朝から晩まで釣りをすることなんて考えたことがなかった。
彼はそんな私の話を聞いて大きなニジマスを釣りに行こうと誘ってくれた。私にとっては初めて誰かと一緒に行くフライフィッシングだった。行き先は空知地方のとある河川。集合は3時半頃だったろうか。元から朝方の自分ではあったので驚きはしたものの、二つ返事で頷いた。
当日、合流して車を乗り換え、薄明るくなってきた道路を走る。車内ではどんなことを話しただろう。今となっては思い出すことはできないが、きっと「あそこの川にはこんな魚がいる」「こんなフライで釣った」「今見えた川、よさそうでしたね」なんて、いつもと変わらない話をしていたのではないかと思う。
たどり着いたその川は今まで自分が釣りをしていた川の何倍も広く、美しく豊かな水が滔々と流れていた。ここに50センチを超す大きなニジマスがいるのかという期待と、この広さの川で思ったとおりに釣りをすることができるのかという不安が全てだった。
釣り始めてすぐのポイントを譲ってもらった。ロッドを振り、フライをシュートするとなんとかギリギリ狙ったレーンに届いた。きっとループはぐちゃぐちゃ、フライにもドラグがかかっていたに違いない。しかし、そんな私のキャストを見た彼はそれだけ投げれれば今日はきっと釣れるよと声をかけてくれた。一気に期待値が高まった。
そしてその後見た彼のキャストに度肝を抜かれることになる。美しくタイトなループ。一定のリズムで滑らかに伸びていくライン。そして何より彼の佇まいに。自分がロッドを振るよりも、彼の釣りを見ていたい。そう思った。そしていくつかのポイントを釣り上がった先の小さな淵頭で、彼のフライが水面から飛沫を上げて消えた。慌てることなく楽しそうにファイトをした後ネットに入れた魚は50センチに少し届かないニジマスだった。大きく美しい鰭、紅く染まった頰、そして何よりその大きく力強い魚体。全てが衝撃だった。
「この川らしいいいニジマスだよ」
彼は穏やかにそう言った。さらに、
「はい。今釣れたフライ。あげる。」
そう言って彼が渡したのはマシュマロビートル。その日から今まで自分が最もよく使うフライの一つとなったフライだった。
その後のポイント釣りをする私に「バックキャストの時に竿が寝すぎているよ」「最後のシュート、すごい力が入っている」「ラインは水面にこうやって落とすとドラグが掛かりづらいんだよ」と、惜しげもなく様々なアドバイスをくれた。目から鱗とはこのこと、我ながらキャスティングが、そしてフライのプレゼンテーションが幾分思い通りに行えるようになった。
そうして釣り上がっていったポイントで、ついに私にも待望の時が訪れた。そこは流れが川の右岸に寄り、岸際に岩盤があることで深場を形成するポイントだった。
「ここは結構いい魚が着いていることが多いんだ。投げてごらん。」
そう言われ、もらったばかりのマシュマロビートルをプレゼントする。すると、大きな影がゆっくりと浮いてきて、フライを咥えた。そこからは正直あまり覚えていない。初めて感じる強烈な引きと重さ。リールの逆転音。まともに呼吸できなかったことと、ランディング直前に足にラインを巻かれたこと。随分不格好なファイトだったのだろうとは思うがどうにかネットに入れることができた。その魚は今まで釣ったどの魚よりも野性的で逞しかった。サイズは40センチちょっと。今ではそう大きいとは思えないのがまたなんとも言えない気持ちにさせるが、その日の自分にとっては大記録だった。彼には「おめでとう。でも時間かけすぎだよ。もっと早く勝負したほうが魚にとってもいいよ。」と言われた。
その日は大きな魚はその一匹しか釣れなかったものの、彼は同じ様な50センチ前後のニジマスを他に2匹釣り上げた。羨ましいという気持ちももちろんあったが、またこの人と釣りに行きたいと強く思った。辺りが薄暗くなってくる頃ようやく釣りを終え、帰路についた。ひどく疲れていたが、頭はあのニジマスのことで一杯だった。
これが自分のフライフィッシングの本当の始まりだったように思う。
あの頃を思い出し、またあの川に訪れてみようか。