水産資源として鱒を見る

水産資源として鱒を見る

文:木村圭介

 

春の初め、北海道空知地方のとある河川に釣りに出向いた。

1つ目に行った川は、数が少ないながらもよいサイズの魚が出る川。2つ目に行った川は、たくさん魚の数がいるけどサイズが小さい川。これらの川の数とサイズのバランスは、ここだけの話ではなく、他にもそういった様子の川がある。何かしらの原因があるのだろう。そこで私達が暮らす北海道の河川に住む魚を、釣りの対象魚としてではなく、少し目線を変えて水産資源的に捉えてみることにした。

1つ目の川のニジマス1つ目の川の最大サイズ

 

2つ目の川のニジマス2つ目の川の最大サイズ

 

まず第一の前提として、北海道の河川の現状について。北海道は本州と違い、内水面には基本的に漁協が存在しておらず、漁業権も設定されていない。よって釣り券のようなものもないところが圧倒的多数だ。漁協がないので放流もない。ところによっては、有志が放流している川もあり、私自身、小学校の授業の一貫でヤマメを放流した経験をもっている。ただそれらは北海道に数多くある川のうちでも本当に一部。つまり、昨今人為的に渓流魚が増えるケースはそう多くなく、基本的には自然繁殖しているものと捉えている。


第二の前提として、北海道の釣り人について。こと淡水のトラウトフィッシングに限って言えば恐らくキャッチアンドリリースが圧倒的多数派であり、魚の数の減少には、人為的な関わりが少ないと考えられる。昔は1年魚2年魚を大量に持ち帰る人も珍しくなかったように思うが、今では稀だろう。さらに、本州と違って内水面には基本的に漁協が存在しておらず、漁業権も設定されていない。よって釣り券のようなものもないところが圧倒的多数だ。漁協がないので放流もない。ところによっては、有志が放流している川もあり、私自身、小学校の授業の一貫でヤマメを放流した経験をもっている。ただそれらは北海道に数多くある川のうちでも本当に一部。つまり、昨今人為的に渓流魚が増えるケースもそう多くなく、基本的には自然繁殖しているものと捉えている。

 

これらの前提をもとに考えを進めていくが、今回目を付けたのが「自然収容力」である。これはその地域の自然が、どの程度の種・量の動植物の健康的な成長を担保する力があるかということを総合的に捉えた言葉である。人間と社会でイメージしてもらうと分かりやすいが、ある一定の地域に人が集まりすぎるとどうなるか。生きていくための物資の供給が困難だったり、理想の住環境を得ることができなかったりなど、様々な課題が生まれる。とある市の首長から都知事選に出馬した話題の政治家も、そんなことを危惧していたのでイメージしやすい人は多いだろう。自然収容力も似たようなものだと思ってもらいたい。


何気なく見ていると中々気が付かないものであるが、自然は実にうまく成り立っている。木が育ち、動物や虫の住処を作る。鳥や動物・虫は果実や花粉を食べることでその繁殖を手伝い、自身も生存していく。山や川のまわりにある木々は根で保水するので、川の環境を安定させる大切な要素となる。育ちすぎた木は自ら腐り倒れ、まだ小さな後発の木に日光が当たる。動物の死骸は他の動物や虫、大地の栄養となる。

キタキツネ 釣りをしていて出会ったキタキツネ。

 

出会ったキタキツネは、急斜面を平気で歩いていた。植物を食べ、糞をするという形で別の場所に種子を運ぶという役割を果たす。

様々な生き物が育ち、朽ちていくことで新陳代謝をしながら自然が保たれているが、どこかのバランスが崩れて正常なサイクルが保たれなくなり、その一帯の様子が変化し続けている状態が自然収容力を超えている状態と呼べる。

 

冒頭で上げた2つ目の川について、小さい魚が多い川というのは釣りをしているとそう珍しいものではない。この状況を釣り人目線で見たとき、喜べない人も多いのではないだろうか。どうしたって大きい魚を求めてしまうのが釣り人の悲しい性だ。

「たくさん釣れるんだからいいじゃないか」

それはそう。そうなんだけど、違うのである。小さいのがたくさん釣れてくると、何だか申し訳なくさえ思ってしまうのである。釣りに行ってるはずなのに。釣り人というのは妙な生き物だ。

「じゃあ釣りなんてしなければいいじゃないか」

それは違う。この感覚は釣りをしてみたらきっと分かる。釣りをしたことがない人はこれを機会にぜひ挑戦してみてほしい。


小さい魚が多いということは、魚が大きくなることができる環境ではないと言い換えることができる。では、川に住む魚に焦点を当てたとき、大きくなるために必要なものは何だろうか。食べ物と、隠れ家である。魚の数がその地域の自然収容力を超えてくると、多すぎる魚を育むための餌の量と安全に過ごす場所が不十分となる。これでは魚が大きくなる前に捕食者に捉えられてしまったり、寿命を迎えてしまったりする。

こうして、小さい魚が多く大きい魚がいない川が出来上がる。

2つ目の川 2つ目の川。植物が多く問題がないようにも見えるが、実際のところは

 

さらに言えば、小さい魚が多いとそれらが捕食する水生昆虫も減っていく。小さい魚は往々にして食欲旺盛である。ある種が増え、その種に捕食される種が減る。そうした動きの中で少しずつバランスが歪んでいき、徐々に大きくなっていく。そうやって静かに自然が壊れていく未来が薄っすらと見えてこないだろうか。


このような現象が起きている中、私達には何ができるだろう。一つの答えは”間引き”だろうか。増えすぎた魚を減らすのである。適度に魚を抜くことで、餌や快適な住処が行き渡り、魚も大きくなっていくことが考えられる。トラウトに対するものではないが、異なる種の淡水魚の間引きを行うことで世代交代のバランスが取れた例もあるそうだ。しかしこれは本当に限られた期間や場面でしか効果のない対応だ。自然に手を加えるということは本当に難しい。全てが繋がっているからこそ、人が加えた手の影響が、巡り巡ってどこまで広がっていくのか全てを知ることは不可能に近い。このあたりは、フライフィッシングの発祥のイギリスで”川の管理人”という生業をしていたフランク・ソーヤー氏の著作「イギリスの鱒釣り」(倉本護 訳)を読むと難しさが本当によく分かる。


水産資源として鱒を見たとき、自然の歪みが少なからず見えてくる。だからといって、人間がそれを”管理”しようとするのは大きな困難を伴う。今、我々がすべきことは自然を管理しようとすることではなく、自然がかつての姿を取り戻すための”ちょっとした手助け”程度なのではないだろうか。

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