ただ森を観て、撮り歩く

ただ森を観て、撮り歩く

文:Andy(Podcast制作者

1995年生まれ・一橋大学社会学部卒。2020年より北海道白老町に移住し、自然の面白さをテーマとしたポッドキャスト番組「ミモリラジオ」の立ち上げ以降、北海道でポッドキャストを軸に企画・制作・出演など活動中。また自然を中心にしたマクロ撮影や、エッセイ執筆も行う。(現在、新番組立ち上げ中)

Instagram:@andyutaro
Podcast:ミモリラジオ

 

北海道の南に位置する白老町に移住して、4年になる。ここは駅から歩いて10分も行けば広大な森という立地で、仕事の気分転換として「森歩き」という選択肢を与えてくれる素晴らしい環境。そこで僕は、ディスプレイや紙や頭の中で繰り広げられる「抽象的なアレコレ」から一息置きたくなった時は、森の中でひたすらに「具体的なモノ」を浴びにいくことにしている。

 

最初はただ、歩くだけだった。あるいは釣りやハイキングやキャンプのように、何か目的を持ってそのために森を歩くということもあった。けれど、同じ森を何回も歩くうちに、そこかしこに佇む異形の存在に気づくようになってくる。普段は想像しないようなモノたちが、視界へ鮮烈に飛び込んでくるのだ。気づけばミラーレスのカメラを持ち、そこに中古のマクロレンズを付けて、目的地もなくひたすら森を歩き回るようになった。

 

たとえば「自然な色」と聞いたとき、どんな色を思い浮かべるだろうか。少し淡い黄緑色のように、あたたかみと淡い雰囲気のある色...このような意味合いで普段使われている印象がある。まさかビビッドな原色をピンポイントに思い浮かべる人はいないだろう...もしそんな色を思い浮かべていたのなら、あなたはすでにかなり森を楽しめている。

 

ここでこのキノコをみてほしい。白老町の森で撮影したものだけども、なんとも刺激的なレモンイエロー。そしてグニャグニャとしながら緻密でしっかりしていて、力強く盛り上がっている造形は、現代アートの系譜にも置けそうだ。これはカベンタケというキノコで、大きさは1cmから3cmほど。小さいキノコでありながらキノコらしくない形を、それぞれの個体が思い思いに作り出し、散らばり広がる。そんな様子が花びらのようだから花弁(カベン)タケと名付けられた。実際このキノコがたくさん地面に散らばって生えている様子は、黄色い花吹雪が舞ったよう。気づける人だけが気づいているというだけで、人が見ていようと見てなかろうとお構いなしに、森を小さく華やかに彩ってくれているのです。

 

カベンタケは10月下旬の北海道でよく見かけることができるのだけど、この時期はなかなかに寒くなってくる時期で、花はおろか紅葉も終わりかけ。森に入っても緑は少なくなってしまい、大体のキノコも見頃が終わってしまい少し寂しい。そんな寒々しい晩秋の地面をレモンイエローに染めるカベンタケは「まだ俺たちのシーズンは終わってないぜ!」と言うかのようで。おおっまだカベンタケがいてくれる...!と励まされるのです。

 

カベンタケのような存在が森の中にいることに一度でも気づいてしまったら「森を歩く」という言葉の意味合いが大きく変わってくる。それは森の中にある目的地への移動や、森林浴のような空気を感じる体験とは全く違うものへと変容してしまう。まるで現代アートや、ユニークなセレクトショップや、古着屋・古道具屋にいくような感覚へ。つまりは「見たことも考えたこともない、未知なる造形を発見して楽しむ」という刺激的なアクティビティへと、森あるきは変わってしまうのだ。



例えばこんなキノコもいる。大きさは1cmほどだけど、中国を中心に宝石としての人気を集めるアカサンゴのような赤さと造形、そしてツヤ。これが鉱物だったなら、きっと博物館や宝石店で見ていたはずなのだが - これもキノコなのだ。薄暗い森の中をライトで照らし、レンズはしぼって周囲の光はできるだけ取り込まないようにして、このキノコだけに集中するようにして撮影。すると表面の艶めきも捉えることができた。

 

このキノコはニカワホウキタケと呼ばれている。
伸びていくにつれてホウキのように広がっていくから、ホウキタケと名付けられたのだろう。これが英語名では” Coral Fungi ”つまり「サンゴタケ」と呼ばれる。それぞれの国によって、同じ形がどのように見立てられたのかが、こうした名前の違いに現れてくるのも面白い。

 

より正確に説明しようとすると「ニカワホウキタケはホウキタケというキノコ達に似ているが、キクラゲの方に近いのであり種類が少し違っていて....」となっていくのだが、そういうことは気になってからで良くって。まずは「なんだこれは!?」と、岡本太郎氏ばりの刺激に森の中で触れてみることをおすすめしたい。

 

また、小さな世界も見逃せない。落ち葉や枯れ木を分解する掃除屋として、キノコは欠かせない存在でして。落ち葉や枯れ木、枯れ枝をよく観察すると、これらをせっせと分解するキノコを見かけることもある。

 

そこでこの写真。これも白老町の森で撮影したものだけど、撮影はとても大変だった。これらはビョウタケというキノコの仲間たち。真上から見ると平べったく、横から見ると画びょうのようでビョウタケと名付けられた。ここまで挙げてきたキノコ達の中ではもっとも普通に見かけることができるもので、ジメジメと湿った枯れ枝や朽木でふつうに見つけることができる。

 

しかし問題はその小ささ。

あまりにも小さすぎるのだ。

 

これは同じビョウタケの写真なのだけど「人差し指」も一緒に撮影してみたもので...ビョウタケの衝撃的な小ささが伝わるだろうか。もはや指ではなく「指紋の一本一本」が比較対象になってしまうサイズ感。この文章を読んでくださっている方も、ここでぜひご自分の人差し指をみてほしい。そして改めて、この写真を見返してほしい。

 

計測はできなかったけど、長さは1~2ミリメートルというところだろう。このようなキノコを知らなければ、あるいはこのような「森の歩き方・見かた」といった視点を持っていなければ、気づこうとも思えないのが当然のこと。逆に一度でも「森の中にはユニークで美しいものがいる」という意識を持ってしまえたなら、こんなに発見と驚きにみちたことはない。そう考えるだけで釣りやキャンプのためのちょっとした移動の瞬間が「何があるのかわからない美術館」のそぞろ歩きと化すのだから。

 

こうしてときどき「まだ見ぬ造形」を見つけるための森あるきをするようになってから、色々なことがわかってきた。もちろん「わかる」ということにキリはないし、どこまでも上はいるのだが...。子供の頃に過ごした政令指定都市や、4年前まで暮らした東京時代にはまるで検討もつかなかった色々な知識や感覚が、森あるきの中で得られてきたという感覚がある。

 

例えば森の様子は「四季」とかではなく、数日でも劇的に変化するということ。古代中国で考えられた季節表示である「七十二候」は、たった5日で次の季節にうつろっていくけれど、森を歩いて得られる感覚はこちらの方がよりしっくりくる。最近の森の中でも雪虫の大群に始まり、朝露で地面がビチャビチャになり、息がだんだんタバコの煙のように白くなって、チラっとだけ雪が降り、とうとう朝の森では立派な霜柱が生えだした。これからいよいよ冬がやってくる。



しばらくキノコも草も生き物も見かけなくなるけれど、それでも森が面白い造形に満ちることは変わらない。冬には冬の美しいものがあるし、冬に見かけたものが春の森を作り出すということもある。以前すこしだけお話したある大学の先生は、雪の中に捉えられる花粉の研究について話していた。

 

少しずつ積み重なる雪は地層のようになりながら、降ってる途中に静電気で捕まえた色んな塵や花粉を化石みたいに封印していく。そうして積もった雪の塊は「塵や花粉の貯蔵庫」でもあり、これが雪解けの中で一気に水溜まりへと展開される。そうしてできる塵や花粉の凝縮された「水溜まり」の中で成長する微生物たちもいて、これが春の森の循環のスタートを切るという見方もできるというお話をされていた。こんなおしゃべりを手がかりに森を歩いても、やっぱりこれまで気づかなかったような造形がまた視界に飛び込んでくるようになる。

 

これを「視界の解像度」と言うか「感覚の感度」と言うか、色々な言いかたはあると思うけど、そう言うものが日々を楽しくすると僕は保証できる。ここまで読んでくださった方も目的地もなく森を歩き、森を観て、撮り歩くという楽しさをぜひ味わってみてほしい。その先にきっと、ふとした瞬間に「なんだこれは!?」と思える幸せな驚きがあるはずだ。

 

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