嗚呼、素晴らしき山菜採り

嗚呼、素晴らしき山菜採り

文;横山 雄哉

 

北海道の5月。山菜を採るために、某所へ。
真冬に雪で一面真っ白だった山々も、雪解けとともに表情を変え、新緑が山肌を彩りはじめている。

あたたかい初夏の日差しを浴びながら、朝露の残る山道を一歩ずつ進んでいく。
木々の鮮やかな緑色、鳥の美しいさえずり、樹木や草花の香り、
そして、長い冬を越えて、力強く生まれ出た生命に、自然の逞しさや美しさを感じる。
自然と触れることで、人間の五感をひらいてくれる。
山菜採りは、単に食材を得るためだけではないと思う。

 

視線を広げると、ふきのとう、タラの芽、ウドなど、旬な山菜があちこちに。
地域によって採れる山菜が異なるのもまた面白い。
また、季節ごとに顔ぶれを変える山菜たちは、どれも今しか出会えない。一期一会だ。
ひとたび季節が過ぎれば、次に出会えるのはまた来年の同じ季節。
それほどに、山菜採りができるのは短く、貴重だ。

 

かつて、山菜採りは「暮らし」の一部だった。
年長者から、山菜の採り方や見分け方、毒草との違いを教わりながら、親から子へと受け継がれてきた。生活に必要な分だけを採取し、山に感謝をする。植物群落を守るために、また次の年も同じ場所で出会えるように、自然に配慮して生活する。

実際に山に足を運ぶと気付かされるのだが、マナーを守れない人が一定数いることがわかる。芽が何も残されていない状態のタラの木をよく目にするが、なんとも悲しい気持ちになる。人間の私利私欲や無知のせいで、徒に生命の循環を摘んでしまっていると考えたら大罪である。そのため、昔から採取場所をむやみに他者へ教えないのは暗黙のルールになっている。「身内にも教えず、墓場まで持っていく」と言う人がいるほど、当時からその場所を大切に守ろうとする意識があった。自然と人とが長く共生するためには、こうした意識や心遣いが欠かせないのだ。


 

ー 人間は自然を支配したのではなく、自然の一部にすぎない。
だから人間以外の自然を、もっと大切に取り扱わなければならない。 ー

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」より




山菜採りとフライフィッシングにはどこか通ずるものがある。
字面通り、山菜採りもフライフィッシングも山菜や魚を得る目的が含まれているが、私が重視し心惹かれるのはそこではない。
目的達成までのプロセスに「自然との調和」が前提となっているところだ。

山に入れば、足元の小さな芽や木々の香り、鳥の美しい声に気づき、
川に立てば、水の流れや魚の気配、周りの木々が揺れる音に耳を澄ませる。

山菜採りもフライフィッシングも、自然と調和することでしか成立しない。
そのプロセスが、人間にとって財産であるように思う。

大人になるにつれ、感性が失われていくが、自然の中で過ごす時間は、それらを少しずつ取り戻させてくれる。そう感じながら、山菜採りもフライフィッシングも楽しむようにしている。




とはいいつつ、今年5月の「山菜会」が、今でも忘れられない。

その日採れたばかりの山菜をみんなで楽しもうと、年代もさまざまな知人たちを誘って山菜会を実施した。集まったのは7人だっただろうか。ただ山菜を食べるだけの会なのに、どこかお祭りのような高揚感があったのを覚えている。

参加者のひとり(顧問の岡村先生)が、「久慈砂鉄鍋」と呼ばれる天ぷら鍋を持参してくれた。「久慈」とは岩手県久慈地方のことで、古くから砂鉄の産地として知られているそうだ。高純度の砂鉄でつくられた久慈砂鉄鍋は蓄熱性に優れ、油の温度が下がりにくいのが特徴で、どの山菜もカラッと揚がった。

 

山菜たち
採取した山菜たち。タラの芽やウド以外にもニワトコやつくしなど。

 

山菜天ぷら
久慈砂鉄鍋と揚げたての山菜。匂いが伝わってきそうだ。

 

採れたばかりの山菜を天ぷらにすると、ほろ苦い春の良い香りがふわりと香ってくる。

実際に食べてみると、独特なほろ苦さとやさしい甘みが広がり、山の恵みをそのまま味わっているような感覚になる。旬の山菜を、その日に採って、その日にみんなで食べる。ただそれだけのことなのに、忘れられないほど贅沢な時間になった。参加者のうち、飲食の仕事に携わっている人はひとりもいないが、あのとき味わった天ぷらは、きっとどんな高級店でも食べられないような一品だったと思う。

 

自然と調和し、季節を丸ごと味わう。しかも、それを親しい人とシェアできる。これらの体験こそが、山菜採りの本当の魅力だろう。

だからこそ、山菜採りは素晴らしい。

 

そばとエゾエンゴサク
締めのそば。エゾエンゴサクの天ぷらを添えて。

 

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